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= 真田幸村について =
眞田三代 
ここ紀州九度山でいわれる眞田三代は、幸村の父、信濃国上田城主・眞田昌幸、日本一の兵・幸村そして幸村の息子大助である。
幸村は1567年 父 昌幸と母菊亭春季に二男として生まれた。
幸村は父・昌幸と共に多くの戦いに参陣してきたが、幸村の名が天下に鳴り響いたのは関ヶ原の戦い以後になる。
兄・信幸は徳川方の本田忠勝の娘と結婚し、幸村は大谷吉継の娘と結婚した。
1589年、秀吉の死により家康の権力が強まり他の大名を圧倒した。
1600年、関ヶ原の戦いで、昌幸・幸村親子は家康から離反し、兄の信幸は徳川に残った。
秀忠三万八千の軍勢を率いて中山道を経て上田城を襲撃するが、昌幸・幸村親子は二千五百の軍で、この大軍を足止めさせて関ヶ原の戦いに間に合わせなかったことにより幸村の名は天下に鳴り響いたものの関ヶ原の戦いは東軍の徳川方の圧勝で終わった
昌幸・幸村親子は兄・信幸の助命嘆願により高野山の蓮華定院にて無期限蟄居という処分が下された。1600年12月13日のことだった
高野山が女人禁制だった為、妻子は麓の村に住まわせていたが、やがて九度山に移り住み妻子と同居することが出来るようになった。
1602年 九度山で長男・大助誕生。
1611年6月4日、昌幸が九度山で没し64年の生涯を閉じた。
昌幸は火葬され境内に埋葬されたと伝わっている。
1614年10月9日「大坂冬の陣」幸村・大助と共に入城、天王寺口に真田丸を築いて防守した。
1615年4月6日「大坂夏の陣」
5月6日道明寺の戦いに後藤又兵衛 薄田隼人ら大坂方の勇将が討死。
5月7日幸村は殿軍を守り奮戦し、茶臼山から家康の本陣に突撃し、家康を脅かしたが増援された旗本勢のために視界を遮られあと一歩のところで家康の逃亡を許してしまった。
幸村は虚しい幕切れを迎えた
午後、幸村が安居神社の岩陰で休んでいるところに松平忠直の手の者の追ってがやってきて、46歳の最後を終えた
幸村の長男・大助は大阪城内で秀頼のそばに仕えていたが、父の死を聞いて愕然とし数珠を握りしめ念仏をとなえ覚悟を決めた。
5月8日鎧を脱ぎ十字に腹を切って息絶えた。
わずか14歳にして立派な最後であったそうだ。
通称『真田庵』は善名称院は1741年の建立で、昌幸が蟄居していた場所に幸村は供養のために建てた石塔の森の松の木に、昌幸の霊は度々怒った姿で現れたので、その神霊を「当地の大権現の神として、その御本地を阿弥陀如来として、祀ったところ怒りの相を改め、神の姿としてこの浄土を守ると約束し、今も「当地主権現」で怨霊信仰で怨みを持った魂いを祀ると逆に力強い神として人々を救って くれる性格になるという信仰によるものである。



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